学ぶタイミング
0歳〜小学校まで
- 生活の中に英語は無く、「学ぶ」と言う概念すらなかった
- 小学校ではまだ英語が無く、触れる機会は全く無かった
- 先んじて学ぶ人も居ない
- 年代的に外国人がすごく珍しい存在であった(1980年代後半)
この頃から「やっときゃよかった」なんて思うけど、どう考えてもそうなる道筋は無かった、思い起こしても後悔などは感じない。環境も整っては無いだろうし、たとえ学ぶ機会があったとしても到底続いたとは思えない。
中学校〜
- 授業に英語が加わる
- 英語を学ばなくなった、嫌いになった大半がここら辺を元凶と考えるだろう
- 6年の小学生を終えある程度育った人間には英語学ぶと言う概念は強烈なインパクトだろう
- すでに「学ぶ力」の差が十分出ている年代でこの一斉スタートはキツい
とは言え英語に触れる機会が設けられる、ちゃんと「やっときゃよかった」とは思うが正直まだ後悔は無い、「学ぶ力」が低いし、まだ一科目としてしか捉えてなかった。言語を学ぶと言う汎用性に気づける訳もなく、貴重な授業が右から左へ過ぎていく
高校〜
- すっかり「やってる人」と「やってない人」が出来上がる
- 他がダメでも英語はイケるタイプの人も出てくる
- ここで学び直そうと思っても自発的にやるしか無く、英語の授業は先行して付いては行けない、願わくばここでもう一度1から学ぶ機会があればとは思う
- 英語と言うものが生活によく顔を出す
先を考える機会が増え英語を必要と本格的に考える人が出てくる、授業以外で英語に触れる事も多くなる、インターネットの台頭、洋楽にハマる、カッコつけたくなる等、正直ここでやってなければ暫くはやらないだろうと感じている。受験英語に無縁なら尚更
〜社会人
- 大学や専門で自ら選んで学び追求する道となる
- 0か100かの位置付けになる、今までもそうだが0でも困ることは無かった
- 学ぶ機会は再びなくなり趣味でやる人もいる扱いになる
ここまでくれば最早やり直す段階ではない、下手に手を出して、やらなくなって挫折するより一切触れていない方がよかったと思う、若い時のやめた後悔が後を引きずる
必要性
暇つぶし
社会人として世に出ると学生時代とは違う暇が出来てくる、学生の暇はイメージで言うと学校内での中休みみたいなもので囲いがある感じ、社会人の暇は帰宅後というイメージで自由度が違う。時間の価値は変わらないけど使った時の効果が違う、まさに「ここでやっときゃよかった」である、必要性とかではなく環境が整ったこの状態でやらなかった後悔はでかい
出来ない
本気になった時のガムシャラ感はすごい、すごいやるよになる。仕方なく時間になったからと言って机に座り1時間の授業を受けている時は違い自ら情報収集、教材選び、他をやらずに英語をやる時間を作る、今までを取り戻すように必死にやる、、、が出来ない。今までの積み重ねがないから上手く行く訳はない。今までの小さな後悔たちが常に頭に浮かぶ
学ぶにあたり
- 必要性はある
- 環境もある
- 時間は取れる
- 十分に後悔は感じた
いつから始めようと「やっときゃよかった」なんて思う、やめた後悔を感じたくなければ続けろ。今やっているなら続けろ、後悔を上書きするまでやれ、出来るまでやれ。
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